『和同開珎』は「ワドウカイチン」か「ワドウカイホウ」か
 
歴史の勉強をしていたら必ずと言っていいほど出てくる、日本最古の貨幣『和同開珎』。
この「珎」を「チン」と読むのか、「ホウ」と読むのかの二つの説があります。
皆さんはどちらで習ったでしょうか?
どちらか確定できてませんが、現在日本では「チン」と読むのが、一般化されているようで、以前見たテレビでも「ワドウカイチン」と言っていました。
 
「チン」と読む根拠は、「珎」「珍」の異体字だからです。
横払いの部分が、横や縦に変化してになったものです。
斜線が縦横に変化するのは、異体字の世界ではよくあることです。
この異体字は古くから存在し、むしろ「珍」よりも「珎」の方が多いぐらいです。
そのため、「カイチン」説の大きな根拠になっています。
 
「ホウ」と読む根拠は、「珎」「宝」の本字「寶」の略字である「寳」の一部だという説からです。
微妙な変化ですが、「缶」になっています。
 
これだけ見ると、「カイチン」説の方が納得できるかと思います。
秩父市和銅保勝会のHPには「カイチン」説を強く推していて、次のように書いてあります。
和同開珎の「珎」は、「珍」の異体字という立場に立っている。だから、音としては当然「チン」となると主張する。確かに漢字の出来方から見て、と関連づけられる点を見出すことはできない。「カイホウ」説のいうの字の一部「珎」を抜き出して略字としたという意見は、漢字の出来方を無視していることになる。珎の形を含むが本字ならば「珎」を略字とも考えられないことはないが、もとになる寳」は既に略されて寶の異体字になっているので、異体字のそのまた略字を想定することは、どう見ても理屈に合わない。
これは、漢字の異体字の歴史を知らない、まったくの事実誤認です。
当時、よく使われていた「たから」の字は、「寳」のほうであり「寶」ではないのです。
和同開珎が発行された和銅元年(708年)付近の石碑などを見てみましょう。
623年『釈迦仏造像記』、668年『船首王後墓誌』、697~706年『薬師寺東塔檫銘』、753年『仏足石記』、776年『高屋連枚人墓誌』。
すべて、「寳」の字体が使われています。
中国の字様書『干禄字書』を見てみますと、「寶」を正体、「寳」通用字体としています。
正体は、説文篆文などを根拠に楷書体化した字体で、科挙試験などではこの字体を使うことが推奨されていましたが、通用字体は一般に書かれていた、まさに生きた漢字です。
つまり「寳」は当時常用漢字だったのです。
『異体字辨』
江戸時代の『異体字辨』では、「寳」を正体にするほどで、長い間一般的だったことも窺わせます(現在の新字体「宝」も載ってますね)。
常用した漢字から一部取り出した異体字が出るのは、これもごく自然の事です。
『和同開珎』の「同」がまさにそれです。
和銅元年に発行されたので、「和同開珎」なのです。
つまり、「同」は「銅」を簡略化したものなのです。
当時の鋳造技術では、細かい部分はつぶれてしまうのか、複雑な部分は簡略化する傾向にあったものと思われます。
細かい部分には略字が優先的に選択されるのはごく自然なことなのです。
5~6世紀の『隅田八幡鏡』にも「同」が刻まれていますが、これも「銅」のことです。
他にも、「鏡」→「竟」も見受けられます。
つまり、複雑な「寳」から「珎」が抜き出されるのもごく自然なことです。
ちなみに本字である「寶」から抜き出されたという異体字も存在し『康煕字典』に紹介されています。
字体の観点からすると、「珍」「寳」も十分根拠になり得るのです。
もっと言うと、両方が認知されていた可能性もあるのです。
略字が誤字で、正字に比べてヒエラルキーが低いというのは、現代人の考え方です。
必要とあらば、躊躇なく使用されていたのが実情です。
漢字は結構フランクなのです。
先の 秩父市和銅保勝会のHPには
カイチン説の裏付けとなるものとして、正倉院の古い文書にある「国家珎寳」という文字がよく引き合いに出される。珎が寳の略字だとするならば二つ重ねるのに別々の「ホウ」の字を使うという奇妙なことになるので、これは「国家チンホウ」であって、珎は珍の異体字として当時常用されていたという事実に基づく「カイチン」説の有力な資料である。
「珎」「珍」の異体字であることは当然で認めるところでありますが、「寳」の略字としての「珎」の存在を否定する根拠にはなりません。
また、
カイホウ説の古い資料では、東大寺伎樂面の「天平勝珎」の文字がある。明らかに年号の「天平勝寶」のことである。年号の字を書き誤ったとは考えられないとすると、「珎=寳」もあながち考えられないことではないとするものもある。然し、寳を珎に置き換えた例は今までにこの一例しかないので、「うっかりミス」という考えの方が妥当のようである。
とも書いてありますが、これも先述の異体字のあり方から考えると「うっかりミス」という考えは妥当ではありません。
当時の人をバカにしすぎです。
両方存在していたのです。
 
私は、断然「カイホウ」説派なのですが、その根拠を示していきましょう。
まず、「開珍」の意味。
このような熟語はありません。
「珍」にも宝の意味はありますが、特に珍しい貴重なものを指し意味の幅は宝よりかなり狭い。
「宝」には「たからもの」の意の他に、「天子の印」や通宝のように「貨幣」の意もあります。
何より、『和同開珎』を最初とする『皇朝十二銭』のすべてに「寳」の字が刻まれています。
その中には『神功開寳』という通貨も存在し、「開寳」という熟語も認められます。
北宋の太宗は、年号に「開寳」を用いています。
日本においても中国においても、「開寳」はありえても「開珍」はあり得ず意味をなさないのです。
『和同開珎』は唐の『開元通寳』を手本に造られていると言われていますが、元祖が「寳」を刻んでいるのに、わざわざ「珍」を選ぶのも変です。「寳」を略して刻したと考えるのが自然でしょう。
そして、この『開元通寳』とともに、中国で日本の『和同開珎』が出土されました。
唐代に日本から献上されたものと思われます。
この発見の際、中国では「珍(チェン)」ではなく「寳(パオ)」と発音されました。
日本語で言う「ワドウカイホウ」と報じられたそうです。
中国での認識も、「寳」の方が自然なのでしょう。
 
成り立ちと時代背景を考えれば、普通に「ワドウカイホウ」と読むのが自然であることが分かります。
「ワドウカイチン」と読む根拠は「珎」の異体字が「珍」で、「寳」の略字としての使用実績が殆どないことです。
しかし、異体字の歴史や性質を深く調べていけば、その根拠も崩れます。
「珍」の異体字と「寳」の略字が奇しくも同じ「珎」となって衝突し、意味も似ていることから、「ワドウカイチン」などという「珍」説が幅をきかせ、異体字への知識の浅さから「ワドウカイホウ」説が排除されつつあるのは、何とも悲しいことです。 

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