「鬱」を覚えるのは大変?
 
 29年ぶりに、2010(平成22)年11月30日の内閣告示で、常用漢字表が改定されました。新たに196字が追加されました。 
 その中で、一番複雑で有名な文字がですが、「憂鬱」という熟語などで大変よく見かけることが採用理由でしょう。
 かなり複雑な字ですが、古い書や古名跡の字を見てみると、「鬱」の字体で書かれたものはほとんど見かけられません。
 漢代の隷書の頃から、「爵」の字形に似たのように、書きやすく覚えやすい字で書かれてきました。「伯爵」の「爵」の字の、「爪」を「林夕」に変えただけ。
 日本でも平安時代にはすでにこの形が一般的に使われていて、「鬱」は使用されていない。初唐の欧陽詢(おうようじゅん)や、平安時代の空海の書も、の字体です。1000年以上が使われてきたことになります。
 
 「鬱」の字体はどこから出てきたのでしょうか?

「鬱」
の篆書体
 後漢時代の許慎という人が『説文解字』(100年)という字典を作りましたが、以後の文字学者がそれを尊重し、その見出し字の篆書体を、そのまま楷書体化した「鬱」を『字彙』(1615年)や『康煕字典』(1716年)などが見出し字としました。日本では、明治時代に入ってから『康煕字典』を手本にして「鬱」の字体が正式に採用されるようになりました。
 文字の発展には、正字の流れと、手書きにより進化していった通用字体の流れがあります。甲骨文字から金石文字、そして篆書体へと、書写材料の変化により進化していきます。木や紙に筆で書くようになると、一気に書きやすくなるよう変化します。隷書体です。隷変といって、かなり大胆に簡略化されました。それは先人の知恵の結晶でもあります。さらに初唐には楷書として完成されます(初唐標準字体)。これが通用字体の流れです。
 一方、正字の流れは、初唐で一旦完成した楷書を見直すことから始まります。数多くの異体字が生まれてしまったため、文字を整理した字典を作る必要が生じたのです。整理するに当たって、時代をさかのぼり、先ほどの『説文解字』を参考に文字の起源とし、『説文解字』の篆書体をそのまま楷書体に変換したものを見出し字としました。そのように唐代に書かれた字典をまとめて「字様書」といいます。『五経正義』『干禄字書』『五経文字』『九経字様』などがあります。これらの字体は『開成石経』にまとめられます(開成石経標準字体)。つまり、篆書の時代から楷書の完成期までの850年間、正字は存在しません。その集大成が清代の『康煕字典』(1716年)です。
 →漢字夜話「同じ漢字でも微妙に違うんですけど、どれが正しいの??正字体と通用字体」も参照
 2011年改訂の新常用漢字に「鬱」が仲間入りし、この字体のみが漢字表に採用されたため、通用字体の「欝」はますます見られなくなることでしょう。従来の当用漢字表や常用漢字表への採用の流れなら、「鬱」を旧字体、「欝」を新字体として採用するべきですが、新常用漢字が「IT関連用語が多く生活の中に入ってきていることを念頭に置いたもの」のため、世の中に印刷字体としてよく見かける「鬱」を採用する流れになったものと思われます。
 問題点としては、古文書や古名跡に書かれているとのつながりを断ち切ってしまったことでしょう。『康煕字典』が正統で、欧陽詢や空海が書いた文字が俗字扱いされるのは正しいことなのでしょうか?しかし、IT時代の現在、実際の多数派は「鬱」の字体です。新常用漢字表への採用は当然の流れでしょうが、通用字体を否定せず、正字体と通用字体をTPOで使い分けることが大事だと思います。
 実際、正字のルーツである字様書のうち『干禄字書』の序文には、「〈俗〉戸籍簿や処方箋、下書きには崩れた簡単な字を使う」「〈通〉上奏や手紙、判決状には長く慣用した字を使う」「〈正〉著述や科挙の答案や石碑には正字を使う」といったようなことが書かれ、TPOによって使い分けることを勧めています。 
 楷書で速記する場合は、是非を使っていただきたいですね。
  
 ちなみに、通用字体のうち「欝」はJISにもある字体ですが、との違いは「夕」の部分がになってます。この部分の略は「夕」のほか「文」もあります。「欝」は正字の流れである『康煕字典』の「木」部に俗字として載っているため、この字が今でも印刷字体として採用されているのだと思われます。この字体は宋代の『広韻』(1008年)という字書から俗字としてみえます。
 
 実は、「爵」「鬱」にはつながりがあります。
 「爵」の甲骨文字は、酒器の形からできた象形文字ですが、金文のころに「又」(手の象形)が加えられ、篆書のころには「鬯」も加えられたため、篆書はとなります。もし、これをこのまま正字体のように楷書体化したらとなってしまいます。実際、唐代の字様書のうち『九経字様(きゅうけいじよう)』にはその「又」の部分を同じく手の象形である「寸」にした字を「爵」の見出し字にしています。
 唐石五経文字九経字様の「爵」。左が説文典拠の字体、右が隷省(略字)の字体として載っています。
 一方、「鬱」の篆書体はです。何となく似てませんか?
 先人は、この二つをバランスよく簡単な文字に進化させようとします。二つは似ていたためか、同じような形に簡略されます。共通の簡略化は「鬯」にしたことです。その右側の部分は、「又」を同じ手の象形である「寸」(篆書では点があるかないかだけの違いです)にして、「鬱」「彡」「寸」にすることにより、使用頻度の高い「爵」と類型化しました。使用頻度の高いものに類型化することで覚えやすく書きやすくするためでしょう。こうして、が生まれ、ともに1000年以上使われてきました。
 隷変のポイントは、字体の簡略化とバランス化、使用頻度の高い字との類型化なんでしょうね。
「欝」の字体は、康煕字典の「木」の部での形で別に載っており、当時無視できないほど「欝」の字体が普及していたことを伺わせます。
 漢字検定準1級からは「欝」も使えますが、高校生が覚えなくてはいけない字体は「鬱」です。その覚え方を最後に紹介しておきましょう。
 「リンカーン(林・缶)は(ワ)アメリカンコーヒー(※・凵・ヒ)を三杯(彡)飲む」 
 アメリカン→米国→米印→※がポイントですかね。どうでしょうか?

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