明治時代の通用字体
 
近江商人が経営する造り酒屋を明治33(1900)年に退職した従業員に、店側が「終身年金」を給付することを書いた「慰労状」が、滋賀県日野町の民家から見つかった、というニュースが、2013.10.16付けの産経新聞に掲載されました。
昔は手厚かった…国内最古113年前の企業年金記録発見 近江商人が永年勤続者に支給 - MSN産経west
明治33年8月といえば、小学校令が改正された時で、現在のように言文一致(話し言葉と書き言葉を一致させましょうという考え)が最初に行われた「国語」が新設されました。まさに日本に「国語」が生まれた年です。
それまでは、話し言葉と書き言葉が異なった状態で、話し言葉は現在と大差ない話し方でしたが、書き言葉は漢字とカタカナの漢文訓読調で書かれていました。
たとえば、「私は筆を持っています。」と話していたのを、書き文字に表すと、「我筆ヲ持チタリ」と書いていました。
英語ではどちらも”I have a pen.”です。
この「慰労状」は、書いた人はそれ以前の教育を受けた人なので、漢文訓読調の文になっていますね。
ここには様々な通用体の漢字で書かれていたので、少しずつ見ていってみましょう。
(以下に出てくる用語、初唐標準字体(通用字体)、開成石経標準字体(正字体)、康煕字典体に関しては『同じ漢字でも微妙に違うんですけど、どれが正しいの??正字体と通用字体』をご覧下さい)

「労・勞」
「労」「勞」両方使ってますね。題の方を康煕字典体の「勞」を、本文の方を「労」と使い分けています。
「労」の上部は「火」2つの部分を行書や草書で「ツ」っぽく略されたものを楷書化したもの。
「状」
へんの部分は、と書くのが隷書の頃より既に主流。に従う開成石経標準字体は宋代以降で増えてくる。
「安」
ウ冠の1画目と、「女」の1画目が一緒になって減画されている。筆順としてはワ冠から書き、それを貫くように「女」を書く。
北魏楷書からこの字体で、崩した草書からひらがなの「あ」ができた(筆順が同じ)。
「歳」
上部を「止」ではなく「山」と書くのが初唐標準字体。なお、中の「小」の部分を点3つに書いたり、「小」の上の横画が一本だったり二本だったりのバリエーションあり。
「察」や「素」、後半の「慰」の中の「小」も点3つで書いてますが、狭いところを点々と書く傾向がある(後述のいとへんと同様)。
「本」
通常の「本」以外にのような通用字体も使われています。は本来「トウ」と読む別字。
楷書の歴史において、実はの字体の方が主流で、北魏や唐代楷書の頃からずっとこの字体がほとんど。
「功」「幼」
つくりが「刀」の字体は北魏や唐代楷書の頃から主流(初唐標準字体)。字源的にはつくりが「力」の方が正しいし、たいして省略にはなってないのに不思議です。
「衛」「後」「行」「役」のぎょうにんべん
ぎょうにんべんは、さんずいのように崩すことが多い。
「仕」「壹」
「士」ではなく「土」になっているが、これも楷書の歴史からは「土」が主流で、「吉」問題と同じ。
「年」
4画目が縦ではなく横。楷書の歴史では多く書かれていて、点のバージョンもある。
これらは、改訂常用漢字表で許容されている書き方なので、教育現場でも積極的に使って良い(漢字テストで×にしたらいけませんよ!
「配」
「酉」は、4画目5画目の曲げの部分は、縦にまっすぐ書くと、6画目7画目の横画にさらに1画増画される。

隷書の頃からこの形が標準
「役」
初唐標準字体は、つくりの部分が」「(「又」を3画で書く字体も)。常用漢字の字体「役」は開成石経標準字体。「設」「投」なども同様。
「數(数)」
初唐標準字体・開成石経標準字体ともにだが、慰労状の「數」は康煕字典体で、初唐標準字体と左上の部分が微妙に異なります。
初唐標準字体のの草書を楷書化したものが「数」で、常用漢字に採用されている字体です。楷書の形では宋代あたりから見られる。
「續(続)」「経」「終」「継」
いとへんはのように、下部を点3つで書くのが唐代楷書からの主流。
これも改訂常用漢字表で許容されている書き方なので、教育現場でも積極的に使って良い(漢字テストで×にしたらいけませんよ!
「續」のつくりの上部は、「士」ではなく「土」で、「吉」問題と同様。「四」の部分も「罒」と書くのが主流。つくりの部分を草書まで崩したものを楷書化したものが「続」
「経」のつくりはのように書くのが、唐代楷書からの主流。前者をさらに運筆を続けながら崩したものを楷書化したものがで、常用漢字に採用されている形。
「継」の基本字は「繼」だが、つくりは複雑すぎて筆写には不向き。「継」は草書を楷書化した字体で、北魏楷書の頃から多く書かれている。「断」も同様。
「美」
初唐標準字体のが書かれていて、日本でも平安時代に多く見られる。これを崩して、ひらがなの「み」ができた。
「美」は説文篆書準拠の開成石経標準字体で、中唐以降で徐々に増えてくる。
「能」
唐代よりのようにの部分を略する字体が主流。「能」は開成石経標準字体で少数派だが、宋代あたりで徐々に増えてくる。
「帰」
康煕字典体は「歸」。唐代楷書では」「のようにへんの部分を略して書かれることが多い。
ちなみに、左右に長く伸ばすのは一字につき一カ所という楷書の習慣があるため、「冖」の部分を左右に伸ばして、「ヨ」の部分は真ん中を突き抜けず短くする形が主流。
の字体は、草書を楷書化したもの。楷書の形でのは、少林禅寺西堂老師和尚塔銘(1157年)、日本では日本書紀兼右本(1540年)などに見られるように、古くから存在している字体。夏目漱石も明治39年(1906年)に書かれた『坊っちゃん』でこの字体を使っています(cf.直筆で読む「坊っちやん」 (集英社新書 ヴィジュアル版 6V) P91.6行11列etc.)。この頃には日本でよく使われた略字であったため、常用漢字に採用されたのでしょう。
この頃は、「皈」(JIS第2水準)もよく使われていて、樋口一葉『にごりえ』にも書かれています。へんが「白」ではなく「自」の字体が唐代から書かれていて、「歸」を崩したものでしょう。つくりは、が手の象形で、同じ手の象形である「又」に変えたものから略したのだと思われます。JIS第2水準にも採用されるぐらい浸透していたので、当用漢字・常用漢字に採用されててもおかしくない字です。

「営」

開成石経標準字体・康煕字典体は。常用漢字「営」は上部を「ッ」に略したもの。
「呂」の部分をと、間を「ノ」でつなげないが初唐標準字体で、日本でも明治期まで長年主流であった。
上部を「ツ」に略すのは草書の楷書化で、慰労状の「営」は初唐標準字体を更に略した形
「最」
「又」の部分をに略したは唐代より多く書かれていて、異体字であるも多い。
「是」
の部分をにまで略した字体(行書を楷書化したもの)。「是」においては少数派だが、「足」や「徒」「徙」「従」などでは主流で、初唐標準字体となっている。たとえば「足」「従」の初唐標準字体はそれぞれ」「
「隠
初唐標準字体(通用字体)は右上が「下」っぽい。康煕字典体は
この慰労状で見られる右上が「正」っぽいは宋代以降で見られる通用字体で、日本では夏目漱石も明治39年(1906年)に書かれた『坊っちゃん』でこの字体を使っています(cf.直筆で読む「坊っちやん」 (集英社新書 ヴィジュアル版 6V) P119.5行6列)。日本では特に近代でこの字体が広く使われていたのでしょうか。
夏目漱石は、明治33年以前の教育を受けたため、通用字体がたくさん使われています。
ちなみに、同じく直筆で読む「人間失格」 (集英社新書 ビジュアル版 11V) にある「隠」は康煕字典体準拠のが書かれていて、他もほとんど康煕字典体です。著者の太宰治は明治42年(1909年)生まれで「人間失格」が発表されたのは昭和23年です。明治33年以降の教育を受けたため、漢字は主に康煕字典体で習いました。
常用漢字の「隠」の字体は、後漢の隷書から見える字体で、初唐の三大家のうち欧陽詢や褚遂良(ちょすいりょう)が書いたので採用されたと思われる。
いずれにしろ、通用字体には開成石経標準字体(康煕字典体)ののように「工」は含まれず、それどころか小篆が定められた秦代の睡虎地秦簡にある隷書の字体では、すでに「工」は省かれています。
「圓」「惠」
どちらも開成石経標準字体(康煕字典体)で書かれています。
「圓」の初唐標準字体(通用字体)はで、「員」の上部を「厶」と書くのが普通です。特に、くにがまえ「口」とかぶるのを嫌うため、このように書きます。「圓」に限らず、小さい「口」は「厶」で書かれることは多い。「損」「説」「國(国)」「域」「獸(獣)」「遠」「還」「單(単)」なども「口」の部分を「厶」で書くのが普通でした。常用漢字に採用されたものは、小さい「口」の字体が多く、逆に「統」のように、「口」を「厶」にした通用字体を採用した例もあります。
ちなみに、常用漢字の「円」は、「圓」の「員」を縦線にまで省略してと書かれたものが、時代ともに下部の横画が上方へせり上がってできた字です(cf.日本銀行の旧館は「円」でできている?!)。は、空海や藤原定家などが書いた日本独自の略字です。
慰労状の「恵・惠」の下に横画が一本あり、『字彙』のに近い形。明代の王鐸が同様に書いてます(cf.王鐸字典 )。初唐標準字体は常用漢字と同じで、日本でも奈良~明治はこの字体がほとんど。明代の『字彙』は、清代の『康煕字典』はで、江戸や明治に日本に入ってきたため、その頃にはこれらの字体も書かれるようになってきた。

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